F.W.クロフツ作品を初めて読む方へ

 参加しているミステリ読書人の集まるメーリングリストの中で、「クロフツの『樽』の新訳が出ましたね、未読なんですが読んでおいたほうがいいのですか」と質問がありいくつかやりとりがあった。


 ここに書いた文章はそのときのものを書き直したもの。


 クロフツを初めて読む人、あるいは再読してみようという人向けに自分なりの考えをまとめたものである。


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 クロフツの作品は謎を解くことを主にした謎解きミステリでだが「犯人を当ててごらん」型あるいは「犯行方法がわかるかい」型のミステリとは少し色が違う。


 クロフツ作品は捜索型のミステリ。


 あらかじめ伏線がはってあってその伏線に気づけば読者は作中の探偵より早く犯人や犯行手段に気づくミステリ、では無い。


 読者の前に犯行・犯行手段を推理する鍵となる事実が明らかになる時と作中探偵がそれに気づく時が同じなのである。
 言いかえれば、探偵が鍵を発見したそのとき読者にも同時にそのことを知らされる。
 伏線が無い謎解きミステリ、読者に挑戦しない謎解きミステリとも言っていい。


 たまたまなのだが光文社文庫江戸川乱歩全集で出たばかりの第25巻『鬼の言葉』を読んでいたら乱歩がクロフツのことについて書いている文章を目にした。

「犯人の側にはすばらしいトリックが用意されているけれども作者が読者に投げかけるトリックは皆無である」
「犯人は手品を使うが作者は手品を使わない」

 乱歩はうまいことを言っているなぁ。
 ただ、クロフツの全作品に作者の手品が無いのかというとそうでも無いのでは?と思うのだが。


 じゃあ、作者が読者に投げかけるトリックが無いのだからつまらない謎解きミステリじゃないの?という問いかけ出てくるかもしれない。
 そのようなことはない。
 クロフツ作品はけっしてつまらないミステリでは無い。


 試行錯誤を繰り返して事件の真相にせまるプロセスがなんとも楽しいミステリなのである。
 ゆったりとした展開も心地良い。
 また、事件の性質上探偵役はイギリスのあちらこちらを、時には海外まで出かけていくのでその風景描写も楽しい。


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 だが、『樽』(創元推理文庫、ハヤカワミステリ文庫、集英社文庫ハヤカワ・ポケット・ミステリもまだ現役のようだ)を最初に読むクロフツ作品にしないほうがいい。
 ゆったりしすぎる展開の上にイギリスらしい渋いお話、そして少し複雑だからだ。
 クロフツ作品があまり読まれていないのは最初に『樽』を読みそのスローテンポについて行けず他の作品を読む気が失せるからだ、という説もある。


 自分も最初のクロフツ作品は『樽』だった。
 二昔前ほどはミステリ・オールタイム・ベスト表には必ずといっていいほど入っている作品なのでクロフツを読むときまずは最初に手が出る作品だったので。
 読み終わっての感想は、おもしろくないとは言わないがゆっくりしすぎのテンポがまどろっこしく退屈だった。
 それでも海外ミステリ読みとしてはクロフツを何作か読んでおかなければならないだろうと創元推理文庫で何冊か出ていた『樽』以外の1、2冊を読んでみたのだがやはりまどろっこしくてその1、2冊で読むのをやめにしてしまった。


 ところが、30代になってから何気なく手に取った『マギル卿最後の旅』(創元推理文庫)を読んでみればこれがおもしろい。(クロフツ作品のテンポに合う年齢になったとうことかもしれない)
 おもしろいので続けてクロフツ作品を十数作読んでみてわかったのは、『樽』はクロフツ作品の中でもかなりゆったりしたテンポの作品であること。
 これは処女作だからと緻密に作ったからでそれが展開を遅くしてしまったのかもしれない。


 そういったわけでもともと現代に合わないテンポのクロフツ作品群の中でも遅い部類に入る『樽』は最初のクロフツ作品として薦められない。
 つまらない作品では無いので、ある程度クロフツ作品に慣れてから読むのがいい。


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 最初に読むのであれば『スターヴェルの悲劇』(創元推理文庫)。
 展開がクロフツ作品の中では早いほうであるのと、作者が読者に投げかけるトリックがある数少ない作品だからだ。

スターヴェルの悲劇 (創元推理文庫)

スターヴェルの悲劇 (創元推理文庫)



 『スターヴェルの悲劇』を楽しめたなら次は『英仏海峡の謎』(創元推理文庫)か『マギル卿最後の旅』(創元推理文庫)あたりか。


 この3冊を楽しめたのであればそのあとはどのクロフツ作品も楽しめる。
 クロフツは出来不出来の差があまりない作家だからだ。


 個人的には冒険小説色の濃い『フレンチ警部とチェインの謎』(創元推理文庫)も好きな作品。
 倒叙ミステリの『クロイドン発12時30分』(創元推理文庫)もおもしろい。