ミスディレクション−マジックとミステリ


 マジックには2つのミスディレクションがある。
(このあたりは高木重朗さんの『魔法の心理学』(講談社現代新書)や『トリックの心理学』(講談社現代新書)からの受け売り)

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 1つは物理的ミスディレクション

 舞台のマジシャンが突然「あっ」と叫びあっちを指さす。
 観客があっちを向いている間にマジシャンはこっちでこっそり秘密の動作をする、これが物理的ミスディレクション

 もっとも上に書いたような『「あっ」と叫びあっちを指さす』をマジック・ショーなどで行なったとしても誰もあっちを向いてはくれず、それはギャグにしかならない。
 実際の物理的ミスディレクションはもっと巧妙だ。

 ミステリ作家でこの物理的ミスディレクションが上手だったのがクレイトン・ロースン。

 小説家としてはだめだめだったがマジシャンでもあったロースンは比較的だめだめぶりがバレにくい『この世の外から』(創元推理文庫『魔術ミステリ傑作選』所収)などの短篇では名トリックミステリと呼んでいい作品を書いている。

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 もう1つは心理的ミスディレクション

 例えばマジシャンが観客になんの変哲もないある物あらためさせ、それをしかけのある物にすり替えるとする。
 マジシャンは観客にわからないようにすり替えるわけだが、観客の目の前で堂々とすり替えていながらそれを見たことを観客に忘れさせてしまう、あるいは観客からはマジシャンがまったく別の動作をしていると思わせてしまう、これが心理的ミスディレクション

 具体的な例をあげたいところだがマジックのタネ明かしになってしまうのでやめておく。

 ミステリ作家で心理的ミスディレクションの名手はアガサ・クリスティ
 読者を真相とは違う方向に導いていくその技はまさに名人芸。

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 いきなりマジックのミスディレクションの話から始めたのは以前読んで感想を書き忘れていた本のことを思い出したから。




ジェフリー・ディーヴァー『魔術師』
(「The Vanished Man」2003年作品、
 池田真紀子訳 文藝春秋2004.10.15発行 定価¥2,200)

 で、感想を書くのかと言えばそうでなく、本日はその周辺についてだけ話しておく。

 第8章で、マジックのことを知ろうとリンカ一ン・ライムによばれたマジシャンのたまごカ一ラがマジックのミスディレクションとは何か、物理的と心理的の違いを説明する場面がある。

 これがすばらしい。

 文章だけでマジックのミスディレクションを説明するのはとても難しいのだ。
 マジックとミステリを好きな人はこの章を読むだけでも価値がある。

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 で、お話のほうは。
 3作め、4作めでは趣向を変えてみたもののそのためかえってパワー・ダウンしてしまったリンカーン・ライムものだがこの5作めでは調子を取リ戻したようだ。
 本書では本来の「怪人対名探偵」の図式に戻し真っ向勝負をしている。

 密室からこつ然と姿を消す殺人鬼、二転三転するプロットと読み応え十分だ。

 もっとも最初の密室からの消失はマジックのトリックを使っているのでタネを明かせばあっけない。
 マジシャンがタネ明かしをこばむのはあまりにもそのタネがシンプルなのでそれを知ると観客が拍子抜けしてしまうからだということがマジックをしない人にわかってもらえるだろうなと思えるほどあっけない。

 また、この作品、ディーヴァーと言えば読者サービス過剰の連続ひっくり返しと、ひっくり返すためだけのひっくり返しを書くジェット・コースター・ノベル作家なのだが、本書ではストーリーにふくらみを持たすためにこのひっくり返しを使っていてそこも注目したいところだ。

魔術師 (イリュージョニスト)

魔術師 (イリュージョニスト)





 さて、マジックと言えば2人の作家を忘れてはいけない。



 1人は不可能犯罪ミステリの巨匠、ジョン・ディクスン・カー(別名カーター・ディクスン)。

 もっとも、カーはマジックの知識は豊富だったが自身がマジシャンでないせいもあって考案したトリックはマジック的ではなくやや強引。

 まぁ、そこがカーの魅力の1つなのだが。

 同趣向の不可能犯罪をあつかったカー『爬虫類館の殺人』(創元推理文庫)とクレイトン・ロースン『この世の外から』を見比べればそれがよくわかる。



 もう1人は、紋章上絵師でありマジック創作家でありミステリ作家の泡坂妻夫さん。
 泡坂さんのミステリ作品は、特に初期から中期にかけての作品はどれもマジック色が濃く出ている。
 それは心理的ミスディレクションの変形の・・・・。

 と書き始めたもののカー作品と泡坂作品のトリックやミスディレクションのマジック的なところ、を書くと長くなるし考えがまとまっているわけでもないので次回の宿題。